林世功について
明治維新、それは日本の歴史上まれにみる大変革の時代であった。維新とは「維(こ)れ新(あら)たなり」の意で、これは中国最古の詩集『詩経』の「文王上
に在り 於天に昭かなり 周は旧邦なりと雖ども 其の命維れ新たなり(文王は天子であられる。ああ、あまねく世を照らされる。周の国は古い国であるが、天
子の命は実に新しい)」(大雅「文王」)に基づき、万事新しいという意味だとされる。一八六八年(明治元年)、三百年にわたり続いてきた幕藩体制を「これ
新たなり」と言わんばかりに一新したのだから、大変な変革といわなければならない。しかし明治日本のように自力で維新を果たした所はそれとして、またその
陰で強要された維新もあったことを、我々は歴史の二面性として知っておく必要があるのではなかろうか。私は琉球に生まれた林世功という人物を思う時、いつ
もこういう思いに捉われる。
林世功は明治以降の沖縄で、ある面で一番知られた
人物ではなかっただろうか。今日の沖縄では知る人も極端に少なくなったが、沖縄の歴史上血の気の失せる衝撃を与え得た人物といえば、この林世功をおいて他
にいない。それほど林世功は名高い。名高さに反し、この人物の残した漢詩文はほとんど顧みられることなく消え去ろうとしている。私はこのことを惜しみ、こ
こに彼の残した漢詩を繙(ひもと)いてゆきたく思う。それに先立ち林世功とは一体どのような人物であったのか述べてゆこう。
明治十三年(一八八○年)十一月二十日、林世功は中国北京の都で毒をあおり自らの命を絶つ。前年日本の明治新政府の圧力により琉球は日本の一県沖縄県として日本に強制併合され、ここに長く続いた琉球王国は歴史上からその名を消す。世にいう琉球処分である。
東南アジアから朝鮮、中国、日本に及ぶ一大海上交易に輝かしい名を轟かせた琉球王国も、
江戸初期島津の侵攻を受け、その支配下に入る。島津支配下においても琉球国として独自の政体を持ち、明治五年に琉球藩と名目代わりはするが、尚巴志(しょうはし)(一三七二〜一四三九)の琉球統一以来数えても四百五十年、ここに琉球王国はその幕を閉じた。
琉球は中国の属国として中国へ進貢することにより中国側から膨大な品物を賜与されてきた。これが琉球と中国との交易の形態(進貢貿易という)となってお
り、島津はこの利益を得ることを主眼としていたために、琉球へ侵攻した後も琉球が中国の属国として従属することを認めた。そのため琉球は実質島津の支配下
にありつつも琉球国として中国に従属する独立国という複雑な体制を持つことになった。いわゆる両属国家である。国家概念が強まる明治期に入ると、琉球は日
本の一部なのか、それとも中国清朝の一属地なのか、琉球の持つ両属体制という曖昧さが許されず、琉球がどこに属するかという帰属問題が重要案件として浮上
する。
日本政府は琉球が日本に属していることを内外にも
明らかにするために、次第に琉球の日本への帰属策を本格化させてゆく。琉球王府自体は独自の立場を表明せず、旧来通り両属体制を繰り返すだけで、日本の圧
力に抗すべく陳情使節を東京や中国へ派遣するのが唯一の策であった。こうした中、林世功も密命を帯び、琉球処分の行われる二年前から中国福州に来て中国側
へ陳情活動を行っていた。中国と日本との外交交渉により、強まる琉球への日本政府圧力をなくしてもらう、というのが陳情の目的であった。陳情の効もなく、
琉球国がなくなり王尚泰((しょうたい)一八四三〜一九○一)が東京に連れ去られたとの報を受けると、監視のため福州に入っていた日本の密偵の目を逃れ、
満蒙風に弁髪を結い中国人に変装し政治の中心地北の天津、北京へと陳情へ向かう。李鴻章をはじめ中国外務省に当たる総理衙門の有力者に琉球救援の軍隊派遣
を要請するのが目的であった。しかし彼はそこで日本と中国とが琉球を分割することで物事の決着をはかろうとしていることを知り、自分の命と引き替えに琉球
国の再起を願って、自らの命を絶つ。
次の詩は林世功とともに北京へ陳情に訪れた琉球漢詩人蔡大鼎(さいたいてい)によって記録された林世功辞世の漢詩である。詩は其一と其二よりなる。
昔から今日まで忠孝を尽しえた人間は何人いるというのか
二十歳ともなれば 父母に孝を尽して当然なのに 逆らってばかりの二十年
老いた両親はいつも涙を流し この親不孝者のため二人そろっての白髪頭
さらに今 私の死を耳にしたならば その心の嘆きはどれほどのものだろう
蔡大鼎はこの詩を『北上雑記』という北京での陳情の日々を記録した書に書き残しているわけだが、さすがに林世功の自害は衝撃が大きかったらしく、自害して果てたその年にはこの詩の記載はなくただ次のように記録するだけである。
林子叙、諱(いみな)を世功という、この人物が都で世を去ったことを記録する。享年四十歳。
ここに次のことを記録する。死というのは聖山泰山よりも重いというが、しかし林君は国家の存亡だけを思い、一八八○年(中国暦光緒六年・日本暦明治十三
年)十月十八日、すでに自ら書いた訴え状を中国官吏に渡し、自らの死と引き替えに国家の回復を懇願したのである。中国官吏は深く嘆き、まことに忠臣であ
り、まことに同情に耐えないとして白銀二百両を悼み賜わり、棺を整え葬儀の費用に当てるようにとのことであった。二十日、遺体を乗せた柩車を引き葬儀を終
え、張家湾に埋葬した。ああ、いたましいことだ。涙が止まらないのは、ひとえに忠節の為に死んだからである。まことに林世功の行いは古人に勝るとも劣るも
のではない。百世にわたりこの誉れは語り継がれ、万代の鏡となるであろう。異国北京城市の者でさえこれを耳にし、目にした者は潔き行いを嘆かない者はいな
い。まして我が祖国の者は耐えざる思いに涙を垂れる。ここにわずかばかりの言葉を綴りこれを記しておく。
ここに見られる「享年四十歳」というのは数え年齢
であり、満年齢に直せば三十八歳に当たる。また「十月十八日」とあるのも中国暦(陰暦)に従ったもので、陽暦に直せば十一月二十日となる。自害より一年
経った日、蔡大鼎は息子の錫書(せきしょ)とともに林世功の墓参を終え、はじめて中国官吏に差し出した訴え状とこの辞世詩を載せる。
自害するに当たって林世功を苦しめたのは、国の為に身を投げ出せば親を苦しめることになる、かといって親の為を思えば国に尽すことはできなくなる、という悩みであった。
「私
はもう五年もの間、国の為に訴え続けてきた。もうこれ以上は死をもって訴える他はない。どうか、ご両親よ、賢明なる兄弟諸子に世話を頼まれよ」などと一首
目では親に対する孝行を放棄したかのように詠みあげながら、二首目では「白髪頭の両親は私の死を耳にするとどんなに嘆くだろうか」などと両親を思いやる気
持ちを吐露している。二首目に見える「耗(がくもう)」のはおどろくこと、耗は通知のことで、「おどろく知らせ」で、人の死を告げる知らせをいう。
(注)「がく」の漢字はネットでは出ません。悪しからず。
「国に忠ならんと欲すれば親に孝ならず」といった悩みを、結局林世功は自分自身を世界一の大罪人と呼ぶことにより己に罪を着せて、死の道へと赴いていったのである。
太陽が西の建物に懸かり、時刻を知らせる鼓の音が短い命をさらに急き立てる。
暗い黄路には客も主人もいない。そんな暗い道へ今夕、家を離れて向かう。
奈良朝の昔、謀反の濡れ衣を着せられて死を命ぜられた天武天皇の皇子大津皇子(おおつ みこ)がこの辞世の漢詩を残して、賓も主もまさに知る者の誰もいな
い黄路(よみじ)へと向かったように、林世功も国家回復への願いを込め暗い暗い知る者の誰もいない黄路へと旅立ったのである。
十月十有八日既に手書せし稟書を将ち、列憲に呈遞し、死を以て叩懇し具に興滅を奏す。
この蔡大鼎の書き方は、明らかに自分の死と引き替えに訴え事を叶えてほしいとの態度を林世功がとったことを表わしており、これから判断すると林世功はすで
に毒を飲み官憲に訴状を差し出したことが伺われる。もしそうだとすれば、まさに劇的な訴えだ。こうして見ると林世功の行動は自らの命と引き替えに国家の回
復を願い出るものであったことがわかるが、それだけであったのかという思いに捉われる。同時にそこには憤りというものが感じられ、私は憤死ともいえるので
はないかと思う。
林世功が憤ったもの、それは強圧日本に対するもの
であったのか、それとも一向に陳情を叶えようとしない大国中国に対するものであったのか、あるいはまた大国の狭間でどうすることもできない琉球そのもの、
ひいては訴えることしかできない無力な自分に対してであったのか、彼の残した漢詩を味わうことによって、この三十八歳の若さで自らの命を絶った男に思いを
馳せてほしい。