【耳学目学へ戻る】

提供:論語を読むなら勧学堂論語普及会へ

                明治人物ファイル                 meiji-e2

富岡鉄斎(とみおか てつさい)

セザンヌ、ゴヤとともに19世紀の世界三大作家とされる文人画家の生涯

tessai.JPG (7496 バイト)

著者名:越後耕一              掲載:えんじゅ2号−1999.6・15

彼の芸術はセザンヌのように構成的で、ユーゴーのようにロマンティックだ。彼はゴヤ、セザンヌとともに十九世紀の世界三大作家の人だ。 かつて、このように最大級の賛辞を与えられた画家が日本にいた。

 浮世絵の葛飾北斎や東洲斎写楽でもなければ、日本画の橋本雅邦や洋画の黒田清輝でもない。それは、日本の文人画の最後の代表的作家・富岡鉄斎である。文明開化という時代の大波にさらされながらも、八十九年に及ぶ生涯をひたすら学問と独自の画境の確立に費やした、内に静かに燃える炎を蔵した、まさしく巨木のような画家である。

 

広範な知識の蓄積と独自の絵画技法の追求

 

 富岡鉄斎は天保七年(一八三六年)、曹洞宗大本山永平寺の御用達をつとめる、十一屋という京都の由緒正しい法衣商のもとに次男と して生まれた。とは言っても、鉄斎は子供の頃から贅沢とは無縁の 生活を余儀なくされた。鉄斎の父である七代目十一屋伝兵衛が、「青表紙」と綽名されるほどの勉強家、 読書家、慈善家であり、商売にはあまり身を入れなかったために、家業は坂を転がる石ころのように、零落への道をまっしぐらに辿っていたからである。

 しかし、鉄斎はそんな父親から掛け替えのないものを受け継いだ。それは言うまでもなく、好学家、慈善家としての父親の気質そのものである。それは鉄斎という野中に屹立する一本の巨木のような画家を生み出す一つの種であり、同時にその一生を支える、森のように巨大な根っこの大元となったのである。このことは決して見落としてはならない。

     ☆ ☆ ☆

 鉄斎は、四、五歳の頃からすでに遊ぶことよりも本を読むことの 方が好きになっていた。しかも、鉄斎は生まれながらにして冒されていた胎毒の治療がかえって災いして、難聴というハンディキャップを背負わされることになった。だが、結果的には、それが鉄斎にとっては一生の幸福をもたらすことになった。なぜなら、鉄斎の学問好きを快く思っていなかった周囲の人間たちも、鉄斎は商人としては不適格者だと認めざるを得なかったからである。いわば、鉄斎は大好きな勉学にいそしむことを公認されたわけで、心ゆくまで学問に打ち込むことができるようになったわけである。

 鉄斎は、京都で第一流の学者や芸術家たちの塾に通い、広範な知識を蓄積していく。国学、漢学、陽明学、詩文、さらには勤王思想などを深めていったのである。ま た、その過程で、鉄斎は女流歌人としても知られていた大田垣蓮月という尼僧を知り、蓮月焼と呼ばれる彼女の陶器作りの手伝いをするために、一時、一緒に暮らした。鉄斎が二十歳、蓮月が六十五歳の時のことだった。

 この母親と息子あるいは祖母と孫のような共同生活の中で、鉄斎は慈悲深く謙遜な蓮月に大いに感化される。つまり、蓮月との出会いによって、鉄斎は人間性を深め、真の人間の在り様みたいなものを把握したのである。だからこそ、鉄斎は国学者であり、儒者でありながらも、決して偏狭な思想の中に自らを閉じ込めず、目と心を外に向けてオープンにしていたのである。それでいて、学問をする中で把握し得た人間の真実を自らの立脚点にしていたから、決して時流に流されて浮遊するようなことはなかったのだ。

 それは絵画の勉強に関しても全く同様である。当時の学者にとっては絵を描くことは一つのたしなみであった。鉄斎もその例に倣って、二十歳前後から本格的に絵画を勉強し始める。だが、鉄斎の場合はその幅の広さと深さがまるで違っていた。彼は明・清の文人画、浮世絵、雪舟や池大雅や田能村竹田など江戸時代の南画、大和絵、狩野派や琳派などの装飾画、大津絵などを貪欲に研究するのである。「わしの絵は盗み絵だ」と鉄斎は言ったが、特定の師につくこともなく、彼は貪欲にあらゆる絵画を参考にし、模写を繰り返し、全く独自に絵画技法を追求したのである。このこともまた決して忘れてはならない。

 

老いてますます自由奔放になり絵の腕も練達の一途

 

 鉄斎は学者として私塾を開設したり、神官の職に就いたりもするが、二十七歳の頃から絵を描いて生計の助けとするようになった。その生涯において描いた絵画は、風景、花鳥、人物など、小品を含めると実に二万点を超えると言われている。そういう意味では、鉄斎は職業画家として捉えられて当然だが、彼自身は飽くまでも学者を自認し、画家と見られることはむしろ嫌っていた。

「俺は知っての通り元が儒生で、画をかくというのが変体じゃ。それで師匠もなければ弟子も取らぬ。唯もう書物の中から出して画を画(か)くばかりで、それで書物という書物、画論という画論は大概買って読んで居る。(中略)南画の根本は学問にあるのじゃ。そして人格を研(みが)かなけりゃ画いた絵は三文の価値もない。俺の弟子取りをせぬ理由もコヽじゃわい。新しい画家に言うて聞かしたい言葉は、『万巻の書を読み、万里の道を徂(ゆ)き、以て画祖をなす』とこれだけじゃ」 これが鉄斎の姿勢だった。実際、彼は死ぬまで読書を欠かさず、和漢の蔵書は実に三万巻にものぼったと言われている。また、北は北海道から南は長崎まで旅に出掛けてもいる。その意味では、鉄斎は紛れもなく行動の人、実践の人、実証の人であり、彼の強靱さの秘密の一端はまさにそこにあるのである。

 だからこそ、鉄斎はフェノロサの提唱に端を発した文人画の排斥という、嵐のような逆風にもびくともしなかった。彼は飽くまでも自らの姿勢を崩さず、ひたすら独自の道を突き進んのだ。そこには、自分の絵は従来の文人画家たちのものとは違うんだという鉄斎の自負が伺われる。

     ☆ ☆ ☆

 鉄斎の画家としての歩みは早熟の天才が示すような軽快なものではなく、むしろ牛の歩みに近かった。力強く、疲れを知らない歩みであり、決してとどまることはなかったのだ。普通なら、ある程度自分の芸術が確立できたと思ったら、それを守ろうとする心理が働くものだが、鉄斎にはそんなところはまるでない。彼の芸術は、七十歳で古典的な完璧さに達したと言われているが、彼は八十歳を超えてからますます自由奔放になっていくのである。しかも、その技量は衰えるどころか、ますます冴え渡っていくのである。これはやはり驚異以外の何物でもない。いや、むしろ奇跡と言った方がいいかも知れない。

 こうして鉄斎は、自由自在に墨を使いこなし、優れた色彩感覚に基づいた独特の絵の具の使い方を会得し、構図的にも非常に立体感や重量感、実在感の溢れた、独自の絵画の世界を確立するに至るの

である。それはいかにも若々しく、生命感のみなぎったものであり、いわゆる枯淡の世界とは明らかに一線を画すものである。これこそが、鉄斎を鉄斎たらしめている最大の要因である。

 と同時に、鉄斎の芸術は図らずもヨーロッパにおいて勃興してきた後期印象派や野獣派などの芸術と合呼応するものともなったのである。鉄斎は特別にヨーロッパの絵画を研究した形跡は見られず、ひたすら東洋画の可能性を追求し続けてきたはずだが、結果的にはヨーロッパの最先端の芸術の潮流と合流するところまで接近していたのである。それだけ鉄斎の芸術は人間の真実、あるいは芸術の神髄を捉えていたということだろう。

 そういう風に考えると、梅原龍三郎の次のような言葉にも素直に頷ける。

「近き将来の日本美術史は徳川期の宗達・光琳・乾山と、それから大雅と、浮世絵の幾人かを経て明治・大正の間には唯一人鉄斎の名を止めるものとなるであろう」

 フェノロサがいかに文人画の排斥を訴えたとしても、鉄斎には馬耳東風だったのも極めて当然である。

 

北斎、鉄斎、ゴッホには通底する何かがある

 

 そんな鉄斎の一生を概観するとき、どうしても想起せざるを得ない二人の画家がいる。一人は北斎であり、もう一人はゴッホである。

 北斎は鉄斎よりも七十六年も前に生まれているが、その生涯は鉄斎と同じ八十九年に及び、しかも鉄斎と同様に老いてますます創作意欲を燃やしていたのである。北斎は、七十五歳の時に出版した『富嶽百景』に添えて次のように書いている。

「己(おのれ)六歳よりものの形状(かたち)を写すの癖ありて、半百の比(ころ)より数々(しばしば)画図を顕すといへども、七十年前画くところは実に取るに足るものなし。七十三歳にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり。故に八十歳にしては益々進み、九十歳にして猶其(なほその)奥意を極め、一百歳にして正に神妙ならんか。百有十歳にしては一点一格にして生けるがごとくならん。願くは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまふべし」

 この精進への並々ならぬ志の強さは、いかにも自らを画狂人と称する北斎ならではのものだが、それは鉄斎にも共通するものである。しかも、北斎は鉄斎と同じくあらゆる分野の絵を試みているのである。その上、名前も似ており、何か因縁めいたものが感じられるのである。北斎の七十六年後の生まれ変わりが鉄斎であるというような気さえする。

     ☆ ☆ ☆

 ゴッホは、鉄斎とはまさに対極にあるような凄まじい一生を生きた画家として想起されるのである。鉄斎にとっては絵は余技という位置づけであり、そのテーマは広範な読書で得た知識の中から生まれてくるものである。いわばごった煮が作り出す美味なるスープみたいなものである。ところが、ゴッホにとっての絵は、何度かの挫折と絶望を繰り返した末に辿り着いた一枚岩であり、しかもそれは自分との死闘を繰り返す舞台であったのだ。だから、ゴッホの絵には何もかもが過剰に表現されているのである。

 言葉を換えて言えば、鉄斎の絵はプラスの中から生まれたものであり、ゴッホの絵はマイナスの結果だということである。そのことを象徴するのが、二人の耳に関するエピソードである。鉄斎は幼くして難聴になってしまうが、それがかえって彼を学問の世界に没頭させ、必然的に絵筆を取らせるようにもなったのである。それに対してゴッホは、自ら耳を切り取ってしまうが、それは度重なる愛の拒絶や信頼への裏切りに遭い、そんな言葉はもう聞きたくないという、究極の意志表示だと考えてもおかしくはないはずだ。そして、それは自殺への序曲となるのである。そういう意味で、鉄斎とゴッホはコインの裏と表のような関係にあるように思われるのである。

 そんなゴッホが、実は北斎を頂点とする日本の浮世絵師に大いに魅せられていたのである。そのことを考えると、北斎、鉄斎、そしてゴッホという三人の画家は、活躍した時代と国は違っていても、何か通底するものがあったのではないだろうか。そして、北斎とゴッホを両脇に並べて見たとき、鉄斎は一段と画家としての、また人間としての輪郭が鮮明になるので

ある。

 

参考資料

『富岡鉄斎』(小高根太郎著、吉川弘文館刊)  『辞世のことば』(中西進著、中央公論社刊)  『ゴッホ』(パスカル・ボナフー著、創元社刊)

   

(注意)引用は自由ですが、必ず1.著者名、2.えんじゅ何号掲載 を明記して下さい。版権は「全国宅配小新聞えんじゅ」発行元・有限会社オフィス・コシイシに属しています。          

                                                                   【ofkoのホームへ】