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明治人物ファイル                                 meiji-f2  

山県友子(やまがた ともこ)

明治を生きた女性たち−山県有朋の妻

著者名:不動岳志            掲載:えんじゅ2号−1999.6.15
 

山県友子は旧姓を石川友子といった。俳人種田山頭火の愛した山口県川棚温泉駅より二つ目の駅湯玉が友子の生まれた里だ。響灘に面し、背後には山が迫る小さな里で、友子の家は海を見下ろす高台に建つ。

 父良平は大庄屋を務める土地一番の富豪であり、また村人の信望を博した人物であった。どういういきさつか、友子十三四歳の頃、まだ狂介と名のっていた山県は友子を嫁にくれ、と申し出る。奇兵隊で活躍しているとはいえ、まだ一介の下級武士にすぎない山県に良平が最愛の娘をやるはずはない。

 断られた山県は、諦めることができず、数年後奇兵隊の軍監となると、再び友子をほしいと申し出る。友子には長府の富豪から縁談の話があり、それを断って山県に嫁がせた良平に「貧乏侍にやったとは」と村人は陰口を叩いた。事の次第は定かでないが、慶応三年こうして友子は山県と結婚する。友子十六歳、山県二十九歳である。

    ◇  ◇  ◇  ◇

 結婚したものの、当時の社会情勢は山県をのんびりと妻の元で過ごさせるものではなかった。時代は日本歴史上まれに見る激動の時代で、軍務に忙殺された山県は京都から江戸、江戸から越後へと転戦、維新戦争の渦中にあった。二人が普通の夫婦のように一緒に生活を始めるのは、明治三年八月のことである。

あさひこの影さす窓の梅が枝ににほひ染めたる鶯の声

きぎす鳴く声も聞こえてひとつ屋の垣根さびしく散る桜かな

たちばなの香にとぢかねし寝屋の戸をさすもうれしき 月の影かな

 友子がいつより和歌を詠むようになったのか、定かでない。友子の歌は一抹の孤独と、自然に対する感性の深さが感じられるものが多い。閉ざされた里と、時に荒れ狂う響灘、さらにじっと耐える境遇より感性が磨かれていったのではないだろうか。

うちとけて今日ぞ語らむあいおひの松に月日のつもる思ひを

 耐え忍んできた思いを今日こそ心から語り明かそう。まさに「つもる思ひを」とじっと耐えてきた思いを一息に燃え上がらせる火となって相手の胸に飛び込もうとする情熱が見える。会った時の喜びを歌った「逢恋」と題する歌である。恋の歌は他にもある。

手枕の夢も淵瀬を渡りつつ現に濡らす夜な夜なの袖

 恋人と手枕をして夢の世界をさ迷うが、寝覚めてみると袖は涙でびっしょり。毎晩毎晩会えぬ苦しみで泣いてばかりいる。夢と現実の違いの大きさを嘆く「寄枕恋」と題する歌。初めの歌と違って、やってこない恋人を待つ身の苦しさを詠む。そして次のような歌もある。

山の井のあかで別れしきぬぎぬは残るもつらき袖の移り香          (「後朝恋」)

 せっかく会うことができたのにもう朝、別れなければいけない。けだるい思いで去りゆく恋人を見送った後、袖に去る人のもつ香りが残り漂い来る。会った後の別れの恨みをうたった歌だ。人は去り実体はない。しかし袖に染み込んだ香りが残るとする、なにか源氏の世界でも見るかのようなわびしくも優雅な世界が浮かび上がる。

    ◇  ◇  ◇  ◇

 こうして恋に喜び、恋に涙した相手はやはり山県有朋その人であったに違いない。明治維新を勝ち抜いてきたいわゆる志士といわれる人物は、総じて女にはだらしない。伊藤博文や勝海舟は極端であったにしても、複数の女を持つことが「英雄色を好む」で男の勲章のように考えていた節がある。山県も女性関係の噂がないわけではない。しかし、比較的当時の男としては男女関係にはきちんとしていたといえる。それだけ山県が友子を愛していたとも考えられる。二人の間には余一(長男)、春一(次男)、稔子(としこ)(長女)松子(次女)、信子(三女)、梅子(四女)、朋輔(三男)の、三男四女が生まれた。しかし、次女の松子を除いて全員幼くしてこの世を去っている。それだからこそどうしても子供が欲しくて多くの子をこしらえたともいえる。生まれては死に、また生まれては死んでゆくわが子を前に友子の気持ちはどんなであったろうか。

七草を摘むにつけても過ぎし子の年をはかなく数へつるかな

 正月の七日は七草粥の日。七草を摘み、それを粥にして食べると、病気にならないという。皮肉にもその病気にならないという七草を摘みながら、病気で死んだ子のことを思い出し、生きていたらいくつになるのかそっと指折り数える。梅が香り、緑の芽生える初春の野で、静かに七草を摘む友子の姿が浮かぶ。悲しみあふれる歌だ。

 しかし、これとて子の死に直面した歌ではない。死んだ子を思って詠んだ歌だ。友子の歌集の中をどう探してみても、子の死を詠む歌は見当たらない。子の死は、直視し歌を詠むのにはあまりにも強すぎたのかもしれない。ここにかえって思いの深さを見る。

   ◇  ◇  ◇ 

知らざりし同(おな)じうき世に住む人のかくも思ひの変はるものとは

 「述懐」と題する歌だ。同じこのつらい世の中に住んでいる人が、こんなに考えがかわるなんて、考えもしなかった。「同じうき世に住む人」が一体誰なのか、それは本人の心にしか分からない。非常に落胆した思いが見られる。そしてその落胆の原因はなんであったのか、それもいまはもう友子とともに地中深くに眠ってしまった。意味深長な歌だ。そして「とし子の一周忌に」と前書きする歌には、

おもかげはかはかぬ袖に残れども月日ははやくめぐりきにけり

 亡き子のことは一時として忘れたことがなく、いつも思い出しては泣いていたが、月日はあっという間に過ぎ去ってしまった。悲嘆にくれた一年を送ってきたのが忍ばれる。稔子は明治九年十月生まれで、五歳の時に亡くなっている。これから数えて、明治十五年頃の歌と思われる。すでに結婚後七年で生まれた長男は死に、翌年生まれた次男も死に、これおねえさまのお墓、と無邪気に語る次女松子の手を引き、小さな墓に手を合わせたことであろう。相次ぐ子供の死は繊細な神経を持つ友子には相当の打撃となった。いつのころからか彼女は経を読み信仰の世界に入っていった。

わしの山わけいる道は遠けれどたのむ心を栞にはせむ

 「わしの山」は西域にあるとされる霊鷲山のことで、 釈迦が説法を説いたとされる。釈迦のいるわしの山への道は遠く果てしないが、ひたすら信心を頼りとして向かおう。むろん「わしの山」は死の世界を意味する。その死の世界に入りゆく不安と恐れに満ちた歌だ。友子はこの歌を本願寺の法主に送り、明治二十六年九月、ひとり淋しく死出の道へと進んで行った。行年四十二歳、若い他界であった。

弥陀たのむ心はみだの心にて思ひわづらふことなかりけり

 光尊法主の返しである。

  

(注意)引用は自由ですが、必ず1.著者名、2.えんじゅ何号掲載 を明記して下さい。版権は「全国宅配小新聞えんじゅ」発行元・有限会社オフィス・コシイシに属しています。

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