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杉本鉞子(すぎもと えつこ)

  アメリカでベストセラー作家となった、海を渡った士族の娘の半生

 

著者名:高村陽子              掲載:えんじゅ4号−1999.4.15

杉本鉞子(すぎもとえつこ)

一八七三(明治六)年〜一九五○(昭和二五)年

 旧長岡藩家老の娘として生まれ、渡米。一九二三年米国雑誌『アジア』に「A Daughter of Samurai」(武士の娘)が連載される。単行本化されると一躍ベストセラーとなり、日本人初の米国におけるベストセラー作家となる。コロンビア大学の講師を勤める。一九二七年(昭和二)日本に帰国、一九五○年没。『成金の娘』『農夫の娘』などがある。

 

   まえがき

 

 杉本鉞子の著した『武士の娘』を、現在、私たちは日本語で読むことができる。だがこの本は、日本に興味を抱く欧米社会の読者を対象に、もともと英語で書かれたものであった。

 著者鉞子はこの本を、アメリカ滞在中に受けた、日本についての様々な問いに答えるつもりで書いたという。そのため、これは自伝ではない。だが、彼女の目を通して静かに語られてゆく、明治の士族の生活や文化、激しく移り変わる時代、異文化との触れ合いに対する戸惑いや喜びは、私たちにまざまざと当時の有り様を見せてくれると同時に、鉞子という、しなやかな感性を持った一人の女性の人生をも、あざやかに浮かび上がらせてくれるのである。

 

  一 幼年期 

 

 鉞子は一八七三(明治六)年、新潟県長岡市に生まれた。生家の稲垣家は旧長岡藩の家老職を勤めた家柄で、父も国家老の一人であった。明治になり禄と格式は失ったが、一家の日常にも地域の暮らしにも、まだ維新前の風俗習慣は色濃く残っており、そのなかで成長した鉞子は、江戸期の武家の躾(しつけ)や物の見方を身につけてゆく。

 当時の稲垣家には、父母、曾祖母、すぐ上の姉、鉞子の他に、下男や女中もおり、末娘の鉞子は皆に「ヱツ坊」「ヱツ坊さま」と愛された。この男児のような呼び名は、彼女が尼になるべき子とされていたためのもので、これは鉞子にとっては一種の幸運だった。まだ男女の育て方がはっきりと分かれていた当時、鉞子は裁縫、生け花など女子本来の躾のほか、通常は男子の学問である漢籍の手ほどきを、尼になる準備として受けることができたのである。

 師の僧侶と二人、冬でも火の気のない部屋で威儀を正して受ける授業は厳しいものだったが、鉞子はその重々しい空気も、難しい漢語の響きも好きだった。

 もうひとつ鉞子が何より好きだったのは、お噺(はなし)を聞くことだった。乳母や物識りの曾祖母が語ってくれる様々なお噺は、彼女の幼い胸を躍らせた。こうして鉞子の好奇心や感受性は、当時の女の躾の枠に矯(た)められることなく、伸び伸びと成長していったのである。

 

  二 父の死と兄の帰宅 

 

鉞子を殊に愛した父は、不遇の時代にも明るさを失わない人物だった。日本の将来に理想を抱き、新しい変化を進んで受け入れたが、自らが生きた過去の文化への深い敬愛も最後まで捨てなかった。この父の開けた視野、物の考え方は、後の鉞子に大きな影響を与えたと思われる。

 父はよく東京へ出掛けては、新しい文物の様子を家族に語って聞かせた。珍しい舶来の土産もあった。その中で最も鉞子を喜ばせたのは、当時出始めたばかりの子供向けの翻訳本であった。この出会いは鉞子の中に、まだ見ぬ西洋への憧れを芽生えさせた。

そんな父が病で亡くなったのは、鉞子十歳の秋だった。一家は深い悲しみに沈んだが、翌年の夏、父の病を米国で知った兄が、勘当の身を押して家族の元へと帰って来たのは大きな救いだった。

 鉞子が物心つく頃から家を出ていたこの兄が、彼女の人生を大きく変えることになった。鉞子十二歳のある日、大がかりな親族会議の結果、彼女の嫁ぎ先が決まったのである。相手は杉本松雄という在米の青年実業家。異国で病を得て困窮していた兄を、何くれとなく助けた友であった。

 

  三 東京の学校へ 

 

 花婿不在の結納後、鉞子は主婦としての準備と躾に日々を過ごしていたが、松雄から渡米を請う手紙が届くと事態は一変した。英語を学ぶため、急遽東京のミッション系の女学校に入学することになったのである。鉞子、十四歳の春のことであった。

雪解けを待って家を出た鉞子は、兄に連れられて越後を立った。家族や友達との悲しい別れも、若さと持ち前の好奇心ですぐに乗り越えた鉞子だったが、東京での生活は初めての大きなカルチャーショックを彼女にもたらした。

 言葉の発音の違い、派手な着物の流行、履物をぬがずに入る教室など風俗の違いに始まり、鉞子の耳には男の子のように思える言葉遣いの学友たちにも、大いにまごつかされた。中でも驚かされたのは、外国人の若い女教師たちの様子であった。

 お伽の国を連想させる外見に反して、鉞子には彼らが作法をわきまえない、威厳に欠ける教師に思われた。また、彼らの前で自由にふるまい、うちとけて話し合う生徒達はあまりにぶしつけに感じられた。武士の娘として厳しく躾けられ、軽々しく胸の内を人に明かさずにきた鉞子としては、無理からぬことであったろう。

 だが、そんな保守的な物の見方も、日を追うごとにほぐれてゆく。学友たちにも親しみ、教師らの気品ある明るさを知るにつれて、外国人教師と日本人教師の違いを肯定的に捉えるようにもなった。学問にも情熱を燃やし始め、英語の原書を、辞書を繰る間ももどかしく読み耽っては、西欧の思想に触れる喜びを味わった。

 しかし鉞子は、新しく開けた世界に目を奪われるあまり、古いものを全て捨て去る愚を犯しはしなかった。こうした生活の中で新しい物を受け入れてゆきながらも、鉞子は自分を育んだ文化を愛し、西洋と日本の文化の差異やその理由、両者の美点や欠点を、絶えず自らの中に問い続けたのである。

 それはあたかも、日本の古い伝統と、変わりつつある新しい文化の流れが、一人の少女の中でぶつかり合い、鬩(せめ)ぎ合いながらも、美しい融和を求めて混じり合おうとするかのようであった。

 まさにこの時から、日本の、そして自らの、これからのあるべき姿を求める心の模索が、鉞子の中で始まったのである。

 

  四 受洗、そして渡米 

 

 鉞子は特に、西洋人教師たちの考え方の底に流れる、明るい希望に引かれるようになってゆく。それは、満開の桜を愛でる心にも、散りゆくことを哀しむ思いがあるといった、日本人の哀感漂う感性とは大きく異なっていた。

 同時に、厳しく教え込まれた男尊女卑の考え方と、それゆえに女性に課せられて来た忍従の習慣に対しても、幼い頃からの疑問と悲しみが頭をもたげ始める。

 これらの思いは、彼女にキリスト教入信の道を選ばせた。卒業までに、鉞子は家族の許しを得て受洗した。

 こうして四年間の学業を終え、鉞子は単身でアメリカへ発った。涙で故郷を出た十四歳の少女は、落ち着いた娘になっていた。

 長い船と汽車の旅を経て、待ち受ける婚約者の元へ無事たどり着いた鉞子は、六月のある美しい日彼女をあたたかく迎える人々に見守られ、杉本松雄と結婚の式を挙げたのである。

 

  五 結婚生活  

 

 慣れないうちは心細く感じることもあった結婚生活も、次第に落ち着き、新しい環境を愛するようになると、鉞子の目は周囲のあらゆる物へ向けられた。文化の差異に対する興味は、今や自ら異国文化を体験するに及んで、いよいよ増していったのである。

 鉞子のこの好奇心を共に考え、時に導いて助けたのが、名家の未亡人、フロレンス・ウィルソンだった。彼女は杉本夫妻と共に暮らし、終生一家のよき理解者であり、庇護者であったという。夫婦が「母上」と呼んで慕ったこの女性との出会いは、鉞子の人生で最も幸運な出来事であった。

 鉞子は様々な風習の違いに目をとめてゆく。美の感じ方、お金に対する考え、雇用者と召使の関係など、初めて知る日米文化の差異は尽きることがなかった。そんな時、鉞子はかつてと同じく、必ず「なぜ」と問い、同様の考えや誤解がもう一方の文化にもないだろうかと、よく考えてみるのだった。

 このように、日本文化への愛情や誇りも決して失うことはなかった鉞子だったが、かねてから感じていた女性の生き方の違いについては、長いこと心を悩ませた。

 運命を黙って受け入れることを女性の誇りとしてきた祖母や母の強さは、今も敬愛していた。しかし、おおらかに感情を表現し、男性からも尊重されているアメリカ人女性の生活に比べると、日本の因習はあまりに極端で、女のみならず男にも苛酷なものに思われた。だが、やはり自分の中にも、簡単には変わることのできない日本の考え方が根付いている……。思い惑う鉞子に、アメリカの「母上」は優しく言うのだった。

 「日本の花は日蔭に咲いた花なのですから、急に強い太陽にあてると、美しさもなくなり、雑草になってしまうかもしれませんね。日本は今、朝なのですから、花は日光に当たってだんだん成長してゆきます。そして、お昼頃にはかこいがすっかりとれますよ。あまり急いで垣根をとりのけてはいけませんね」

 

  六 夫の死 帰国  

 

 そんな穏やかな生活の中で、鉞子は長女を出産。夫との間にも以前にない深い絆が生まれ、幸せをかみしめた。六年後には次女が誕生したが、その後、突然の不幸が一家を襲った。夫松雄が病に倒れ、帰らぬ人となったのである。

 鉞子は日本語も話せない娘たちの将来を考えて帰国を決意、懐かしい故国へ、幼い二人の娘の手を引いて戻って行った。

 この後、鉞子は長女が十五になるまで日本に留まり、再びの渡米を前に、物語りは終わっている。「武士の娘」が雑誌「アジア」に連載されたのは、再渡米後の一九二三年のことであった。

 

欧米文化の中に生活しながらも、鉞子は生涯を通じて武士の娘としての誇りを失わず、日本の新しい文化の姿を探り続けた。鉞子のその姿勢は、遠い昔、文明開化の時代にのみ必要だったものだろうか。日本人はあまりに性急に「垣根をとりのけて」しまったのではないか、彼女の時代からずっと、私達は大切なものを知らずに失い続けているのではないか、鉞子の物語りはそんな疑問をも、私達に投げかけてくるようである。

 国際化に連れて混乱する現代にあって、私達がもう一度自らの文化について考え、これからの指針を探る時、鉞子の生き方は一筋の光のように私達のゆく道を照らしてくれるに違いない。

 

参考文献

『武士の娘』(筑摩文庫)杉本鉞子著・大岩美代訳

『日本女性人名辞典』日本図書センター

著者プロフィール 

高村陽子氏は静岡県東部在住。昭和四十年代生まれ。挿絵画家。

 

(注意)引用は自由ですが、必ず1.著者名、2.えんじゅ何号掲載 を明記して下さい。版権は「全国宅配小新聞えんじゅ」発行元・有限会社オフィス・コシイシに属しています。

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