論語の話 

 勧学堂論語普及会   

                           (1)孔子について

 

  
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 年を重ねると東洋の学に興味を覚えるという人も多いと思います。東洋の学の中で、一番長く広く読まれているのが論語です。論語は孔子の言動を弟子達が記録したものとされています。混乱の時代を、貧困と苦しみの中に人への信頼を失うことなく生きた孔子は、まさに現代を生きる私たちに貴重な生き方を示してくれるます。その孔子の考えを理解するには「論語」そのものを読むのが一番です。私たちは論語をまず丁寧に読むことにより、論語に親しんでゆける活動を行っています。ここではその補足のお話をいたします。       勧学堂論語普及会 輿石豊伸 

 

 1 孔子(こうし)〔前551?〜479年〕

 孔子は今を遡る約2550年前の人物です。姓を孔、名を丘と言う。親しみを込めて人が呼ぶ時に用いる字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)と言う。生まれ年については前552年とも551年、また別の説もある。

 生まれは現在の中国山東省にあった魯(ろ)国出身。魯国は父の名を叔梁きつ(糸篇に乞うの字)、母は顔氏とされる。生まれて七歳(八歳とも)の頃、父に死なれ貧しい生活を余儀なくされる。そのためにいろんな仕事に従事したとされる。十五歳の時に学問で身を立てようと決意したと論語に見える。以来学問に励み、世の中を平穏に保つには、周の国を作った文王武王の道を実践することであるとの結論に達し、その実現のために奔走する。しかし、魯の国では国主は名ばかりで、実権は家臣が握り、その家臣とても家来に地位を脅かされるのが現実の、混乱状態にあった。魯に絶望した孔子は、35歳頃、隣国の斉に趣き、仕官を求める。国主の景公(けいこう)は迎え入れようとするが、補佐をしていた晏子(あんし)の意外な反対に遭い、失意の内に魯へと戻る。

 魯へ戻った孔子は弟子達へ仁(じん・思いやり)を第一とする教育にあたり、仕官の道を待つ。そして40歳の頃魯に迎え入れられるが思うように仕事ができなかったようで、当時魯の実権を持っていた季氏に背むいた公山不擾(こうざんふじょう)の誘いに乗りそうになるなど、孔子自身も心が揺れる。

孔子諸国を遍歴(54歳〜68歳ころ)

 孔子が54歳の頃(前496)、斉の国から届け有られた美しく装った女性舞踊に魯の指導者達は明け暮れ、失望した孔子は魯を去ることを決意、孔子を採用してくれる国々を求めて諸国を遍歴する。この間盗賊と間違えられ襲撃されそうになるなど苦難の連続であったが、天が与えた道を実践する自分を誰も殺すことができない、との強い自信のもと難局を乗り切る。この間孔子が遍歴した国は、衛→陳→衛→宋→陳→衛→陳→蔡→葉→衛→魯

孔子弟子の指導にあたり官職を求めず

 68歳で魯に戻った孔子は、官職に就くことを求めず、弟子の教育に専念していく。子の鯉やもっとも信頼を寄せていた弟子の顔淵、さらに勇敢で通った子路を失うなど失意が続いた。しかし孔子はそうした状況にあっても自己完成を怠らず、人の道を追求した。

前479年、孔子はこの世を去る、前551年生誕説に基づくと73歳であった。

                                           2007.6.10 輿石

        (参考文献)「孔子家語」 「論語」学研・藤堂明保 「東洋の歴史・人名辞典」人物往来社 等による。