論語の話  

勧学堂論語普及会    

 

 3 論語の日本伝播について

 

 
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年を重ねると東洋の学に興味を覚えるという人も多いと思います。東洋の学の中で、一番長く広く読まれているのが論語です。論語は孔子の言動を弟子達が記録したものとされています。混乱の時代を、貧困と苦しみの中に人への信頼を失うことなく生きた孔子は、まさに現代を生きる私たちに貴重な生き方を示してくれるます。その孔子の考えを理解するには「論語」そのものを読むのが一番です。ここではその補足のお話をいたします。

                            勧学堂論語普及会 輿石豊伸

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3 論語の日本への伝播伝説

 論語は今から約2550年前の中国で成立し、やがて朝鮮半島を経由して日本へ伝わります。いつ日本に伝わったものか、正確なことは分かっていません。ただ、論語が日本へ伝わったことに関する伝承は記録に遺されています。『古事記』の中に、当時朝鮮半島にあった百済の国から王仁(ワニ)というものが日本に渡り、論語を伝えた、との記載です。これは『大日本史』(二一三)にも引かれていますので、その一文をご紹介します。下の漢文掲載がそれです。意訳しておきます。

 応神天皇15年(5世紀前後とされる)に、朝鮮の百済の国から阿直岐(あちき)という人物を派遣して、良馬を献上してきた。天皇は阿直岐に命じてこの馬を飼育させた。この阿直岐は中国の書物に通じており、天皇は皇太子をこれにつけて学ばせた。そして阿直岐に次のようにたずねる、「あなたのくにの博士の中で、あなたよりもすぐれた人物はいるのか」と。これに対して阿直岐は次のように答えた。「王仁(わに)という人物がおります。かれは我が国の優秀なる人物です」と。天皇はそこで、荒田別巫別という人物をやって、王仁を日本へ呼ばせた。王仁はその求めに応じてやってきた。論語十巻と千字文一巻を天皇に献上した。天皇はそこで皇太子を王仁を師として学ばせた。

 

 この伝承によると、朝鮮半島百済からやってきた王仁(わに)が日本に論語を伝えたことになります。この時代は日本の歴史で記紀の時代(古事記や日本書紀に記される伝説時代)と呼ばれる時代ですが、応神天皇は神功皇后の子で、記紀によると神功皇后は朝鮮半島積極的に関わった人物で、その子応神天皇時代朝鮮半島からの多くの技術者を日本に迎え入れたので名高い天皇です。

 2008年神功皇后御陵とされる御陵の宮内庁調査に、考古学会の参加が認められたとの報道がありましたが、神k功皇后の実在を含め、当時の姿が次第に解明されていくと思います。

 王仁(わに)は河内に土地をもらい定住したとされ、墓も河内國交野郡藤坂にある(『夏山雑談』江戸随筆)との伝承があります。古事記では和邇吉師と記されています。『コンサイス日本人名事典』によりますと、西文(かわちのふみうじ)の祖で、河内国古市(大阪府羽曳野市古市西琳寺付近)に本居があったとする。

補足)近江の和邇(わに)

 勧学堂論語普及会を置いています大津市南志賀1丁目は天智天皇の近江京の時代に置かれたまだ名称不詳ですが南滋賀廃寺という大きな寺院があった一角です。ここに勧学堂がもうけられ、学問に励んでいた、その由来に基づき名づけさせていただいたものですが、大津市の北比叡山と比良山の間に位置するところに和邇という地名があります。直ぐ近くには小野集落があり、遣隋使で中国に派遣された小野妹子を出した小野氏の里です。この和邇も論語を日本に伝えたとされる王仁と関連のある一族が住んだのではないかと思われます。ちなみにこの地は琵琶湖に接した海上交通の要衝であり、また湖西添いに福井や若狭に通じ、さらに西の山道を経て、京都に入る北国街道の最短道が通じています。江戸時代松尾芭蕉もよく利用した道のようで、ここから大原にでて、京へ入ります。この湖西山麓付近にあります古墳は朝鮮半島と類似性が高く、帰化人集落が形成されていたとされます。

  大津宮について:近江宮(おうみのみや)と称されてた。大津宮の呼称は『扶桑略記』(叡山僧皇円著・鎌倉前期)に「天皇寝大津宮」としたのがはじめとされるようです。また唐崎(辛崎)は琵琶湖海運の主要港であり、古津とも呼ばれ、それが大津になったとの説があります。

 

 

                               2008.2.18日 論語普及会 輿石豊伸記